※怖い話を文章化したものです。苦手な方は御注意ください。
私には、幼いころの不可解な記憶がある。
まだ幼稚園児であった時分、私は家で2つ離れた弟に起こされた。弟は生来の怖がりで、よくトイレに行くまで一緒に来てほしいとせがむことあった。しかし、その記憶の夜、弟はおかしなことを言ったのだ。
「誰かが掃除をしているよ」
当然、まだ夜中だ。そんなわけはない、と幼いながらに思いつつも、弟が言うように箒の細い竹が、木の床を擦る音が、静まり返った一階から聞こえてくる。
その音が、階段を上ってくる。
幼い私は、眠気など忘れ、耳を澄ましていた。だから気づいたのだが、それは箒の音ではなかった。湿った何かを布で包み、引きずりながら歩く音だ。その何か引きずる誰かー当然、家の者ではない誰かが、階段を一段一段と登り、二人のいる部屋に近づいている。私たちは真っ暗闇の中でお互いの肩を抱き、震えていた。そして、扉が開いた…
そこで記憶は途切れる。
これが、私の持つ後にも先にもない唯一の不可解な記憶である。
一切合切を夢と断ずるには肌が張るような恐怖感があったし、体験と呼ぶにはあまりに現実感を伴わない出来事だ。それに、仮に家の者ではない人間が夜中に侵入してきたら、その後は大騒ぎになっているだろうが、幸いにしてその翌朝に両親が騒いだ記憶も、夜中に似たような経験をしたこともない。我ながら諸々の要素が、現実とは思えないで、二十年ほど、幼年期特有の混濁した記憶であろうと断じてきた。
それから私も弟も成人し、それぞれ家庭を持ち、実家を離れた。この記憶が弟にあるのかを確かめたのは、なんてこともない電話をした際に、もののついでにと尋ねてみた時だった。だが、予想に反し、あるいは予想通り、弟にこの一件の記憶は一切ないようだ。
「大方、兄貴が見た夢だろう」
という見解も、至極真っ当である。
こうして私が経験した唯一の「怪奇談」は納得のうちに幕を下ろした。
それから半年ほど経ったある日の休日、弟の自宅から、我が家に電話がかかってきた。
電話の主は弟であった。
「えっ?お前どうしたの?」
「兄貴さぁ…」
尋ねる私に対し、弟はひどく平坦な話し方で続けた。私の言葉などはじめから埒外であるかのように。
「お前…あれ?」
「いま帰ってきたらさぁ、2階で知らない人が部屋で死んでるんだよ」
「お前何言って…」
弟の話すことに、私はもう訳が分からなくなっていた。全く想定していなかった家に死体があるというのも当然、私を動揺させた。だが、それとは別に私を混乱させたのは、そもそも弟が自宅から電話をかけてきたことだ。弟は昨日から家族旅行に出ていたはずだった。携帯で旅先からかけてくるならまだしも、自宅からというのはどういうことか。しかし、この声は間違いなく弟のものだ。
「なんかさ、家帰ったら床濡れてて、わー何だこれって。そしたら知らない男の人が死んでるんだよ、今」
死体を見つけたばかりとは思えぬ落ち着きで、弟は続ける。
「これさ、兄貴があんな変な話したせいじゃん?どうなんだよこれ?」
「待て。ちょっと待って」
「兄貴の責任じゃん。まずそれをさ、認めてくれよ」
全く話が成立しない。私がそもそもなぜ家にいるのかというのを尋ね、時系列を整理しようとしても、電話の先の弟は、我が家に死体があるのは私が不可解な思い出を話したからだということばかり訴えてくる。救急車や警察など、しかるべき対応をしたのかを問うても、やはり私を責め立てる言葉ばかりが返ってくる。
「だからさぁ、家に帰ったら床が濡れててさぁ、うわっ、違うな。これ色ついてますね……やっぱり血ですよね」
その瞬間、それまで気づけなかった弟とは別の誰かの呼吸音や、耳打ちするかのような、ぼそぼそとこぼすような声に気が付いた。弟のそば、おそらくすぐ後ろに、誰かがいる。
「えっ?おい!誰かと一緒にいるのか!?」
咄嗟の呼びかけだった。先ほどまでの様子からして、弟の返事は期待できなかったのだが、意外にも弟はこれには答えようとした。
「いやまぁ、一人ではないけど……それよりさぁ、こんなことになってんの…?えっ?あ、そうですか?」
「おい!どうした!?」
「待ってね、今代わるから」
代わる。自分話すのか?話していいのか?どんな人間ーいやそもそも、何なのだ。もはや頭が真っ白になっているのをよそに、電話を代わって出てきたのは、男であった。
「認めてあげればいいじゃないですか。それで満足するんだから」
通話は、そこで終わった。
男の声に動揺した私が、受話器を叩きつけるように戻していた。静寂がひどく気持ち悪い。
何もかもが分からない中、脳内で反響する声音。全く知らないはずのその声に、私は聞き覚えがあった。
フラッシュバックという現象だろうか。夢と断じた、あの幼少期の記憶-階段を上ってくる何者かに、兄弟そろって震えていた。扉の先の闇から、足音の主の声がした。私は、その者の声を確かに聞いたのだ。そこのことが、一気に頭の中で鮮明に思い出されのだ。たったいま、弟と一緒にいた男の声、それは間違いなく、あの記憶の中の声と、20年以上経っても寸分違わず同じであった。
なかばパニックに陥りながら、弟の自宅にかけ直すも、誰も出はしなかった。おかしな言い回しになるが、私はそれがなぜか順当なことに思えた。そのあとすぐに、弟の嫁に電話をかけて分かったのだが、弟はこの時、家族旅行で泊っている宿で泥酔していた。
誓って言うが、私は違法な薬物などに手を出したことはないし、このとき一滴もアルコールを体に入れていない。電話の履歴欄には、間違いなく通話履歴が表示されている。
妻がまだ帰宅しておらず、一人で家にいることがひどく恐ろしくなった私は、柄にもなく騒がしい空間に身を置いて誤魔化したくなり、気が付いたときは駅前のパチンコ屋に立っていた。
日が落ちかけたころ、ようやく落ち着いて家に戻ると台所には妻がいた。いつもの光景が、どうしようもなくありがたい。
どうやら私は、さすがにひどく憔悴していたらしい。妻に心配されるほどの顔色であったようだ。いまやひどく恐ろしいものに思えてならない固定電話を、今一度見てみる。
通話履歴がない。
すべては、夢幻であったのか。白昼夢、それもあんなに恐ろしいものであったのだから、それはそれで問題があろうが、少なくとも、一連の混濁した夢のような通話はすべて現実のものではなかった……
胸をなでおろす私に、台所の妻は背を向けたまま言った。
「あぁ、通話履歴、消しておいたから」
我が家に、通話履歴を消す習慣はない。
妻がなぜその日に限って履歴を消したのか、その理由だけはいまだに私は聞けずにいる。
出典「シン・禍話 第四十三夜」
リライトするにあたり、一部構成・表現を変更しています。