のづ記

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【禍話、余話】エチオピアの儀式と我が家に関すること。

皆さんこんにちは、のづです。

 今回は、弊ブログではしばしば行っている怖い話をするツイキャス「禍話」に関する記事です。とはいえ前振りだとか、ハードルを下げるだとか言ったものではなく、怖い話はほとんど出てきません。なので、カテゴリーとしては雑記に近いかと思いますので、あらかじめご了承ください。

 

 ずいぶんと昔の禍話で取り上げられた「エチオピアの儀式」に関して、話をまとめていこうと思います。とは言え、「エチオピアの儀式」自体の大筋については、鳴釜七様のリライトで簡潔かつ的確に書いてくだっていますのでそちらを参照ください。
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 さて、この「エチオピアの儀式」ですが、結局私の家族(より正確には“1年以内に親しい者を3人殺す”と言われた記憶があり、更に範囲が広かった)が立て続けに死ぬとか、死ぬまでいかずとも大怪我や事故に遭うといった不幸が訪れるといったことはありませんでした。今にして思えば「なんで急にエチオピアなんだよ」というコント的ですらある肩透かし感、検索するシュールな笑い話であるという感想も散見されるのもある種当然のことかなと思います。体験した私自身、なぜエチオピアであったのかという事については腑に落ちない、脈絡のなさを感じずにいられません。


 私自身、エチオピアはおろか、アフリカ大陸に一度も降り立ったことがありません。葬送された祖父(ここではYとしましょう)というのも、国民学校で学生をやっていた時分に戦争が始まり、東京大空襲で家も学校もご近所さんも焼かれたそうです。戦後の混乱期に根無し草から商魂たくましく生き抜いた経験*1からか、豪放磊落が過ぎる性向の持ち主*2でしたが、妙なところで保守的な向きがあり、戦後もアフリカはおろか、東京からも出たことがないかもしれないような人でした。無論、復興期の日本でのインフラ業でしたので、やれ仕事を空けて旅行だなどと言っていられなかったというのもあるでしょう。
 要するに私もYも、エチオピアとは何一つ関係がない人生を送ってきた人間なのです。
 そこで少し範囲を広げ、縁者の中にエチオピアと縁のある人物がいないかを探してみたところ、一人だけ思い当たる人物が居ました。それが私が幼い頃に他界した父方の祖父(Yは母方の祖父。ここでは父方の祖父のことを便宜上Rと呼びます)です。

 RはYよりも20ほど年上でした。戦前においては珍しく英語を読み書きできたので良い成績で軍に迎えられたそうで、太平洋戦争の頃には海軍で少佐をやっておりました。戦後は自動車会社に勤め、前述の通り英語が堪能(当時の基準ですからどの程度かは分かりませんが…)ということを買われ、海外で日本車を売りさばいていたそうです。現地のディーラーに「この坂を登れる馬力なら買ってやる」と急こう配の坂を指して言われれば、前進より力の出るバックでアクセルを踏み込んで走破させたりなど、確実にある成長を支えに文字通り世界各地を飛び回り、のちに世界中から「エコノミックアニマル」と疎まれる日本のモーレツ社員の一人だったわけです。私が幼いころに他界したので、その人となりや経歴は私の父、つまりはRの息子からしか聞いていないのですが、どうやら南米(チリ、エクアドル)、インド、インドネシア、イランには確実に行っていたようで、それらに加えてアフリカでも商売をしていたそうです。

 Rのアフリカ出張先に、エチオピアが含まれているのかどうかまでは分かりませんでした。ただ、身内にアフリカへの渡航歴を持つ人間がいたこと、彼が少なからず拝金主義的に思える、少なくとも他者にはそう見える商売をしていたことが、今回年老いた私の父に尋ねる中で分かりました。これを以って「エチオピアの儀式」と関連付けるのは苦しいですが、図らずも意外な我が家の履歴を知る、小規模なファミリーヒストリーのような体験ができました。不思議な縁といいますか、こういうこともあるんですねぇ。
 いやぁ禍話って、本当にいいものですね。




 そういえば、Rがインド土産だと言って買ってきた絵皿が実家にあるのですが、鍵付きガラスケースの中に入れていてもしばしば動く(前に見た時と向きが変わっている)ことがあります。家族内でいちいち絵柄の面を伏せるように置きなおしている人間がいたらそれはそれで気持ち悪い話ですが、あればっかりはどういう理屈なのかいまだによく分からないままなんですよね。どなたか同じような話がありましたら教えてください。

*1:米兵から買った原料不明の甘味料を売り歩いたらしい。

*2:中央分離帯に車が乗りあげてしまったので、そのまま捨てて帰ってくるなど、今なら即炎上しそうなことをしたことも多々ある。